家屋伝承

我が子たちに伝えておきたい、伝統構法の我が家のこと。

「拘り」あれば何でも出来る。「拘り」行けよ。行けば分かる。

 長い余談を書く。お父さんからすると、施工方法よりもこちらの方がよっぽど本題。これさえ通ずればウダウダ書かずとも何とかなる。

 

 以前にお父さんの施主施工品質について記述した。今回の左官にてまた「拘っている」から改めてだ。 

 「拘り」。「高みに昇ろうとしている」ような良い意味で現代は使わる事が多い。しかし、元来は悪い意味で使われていた言葉らしい。「気にしなくてもよい事を気にしている」と言った具合だ。素人他者から素人お父さんに対しては、この悪い意味合いの方で使われる事が多い。これ、玄人に対してならばどうなのか。

 

 施工において「拘り」を持って取り組む。工期を守るならば、素人施主なら歓迎的ではないか。間違っても玄人施工者に悪い意味で使わないのでは。しかし、素人だろうが玄人だろうが人が施工している事に違いは無い。施工の目指す所に頑張って綺麗に造ろうとする事、これは間違いか。最初から「そこそこでいいじゃん」と他者に対して言える事柄って、仕事でも勉学でも運動でも趣味でもあるのだろうか。こちとら人工二千万円分の施工をするんだぞ。素人他者の意図がさっぱり分からん。

 「施主施工なんだから、工期に拘らなくて良いよね。」と言われた事もある。そう、工期の方がどうでも良い。時間面で最も気にしている事を挙げるなら、竣工に至る前にお父さんが死なないかどうかぐらいだ。工事が終わってしまえば、工期が長かったマイナス面などは確実に忘れる。一方、仕上がり具合はずっと残る。この「ずっと」の期間がこの家は世代を超える。拘るのは至極当然。

 

 この家がお父さんに拘りを求めるのは、存立期間の長さだけでない。容姿端麗さもだ。過去のお父さんの施主施工物件がそうなのだが、元が不細工短命な家ならばここまでは拘わらない。既に完成形の端麗さとも荘厳さとも言えるものがあるこの家屋は違う。これをわざわざ造り替えるのだ。その際に程度を下げるような事をハナから容認するなど、暴挙であり愚の骨頂。美人を整形してブスにするようなもんだ。巷の在来中古住宅の改修とは訳が違うし、「施主施工だから仕方が無い」という事は結果であって前提ではない。

 物事に応じた「程度」というものがある。お父さんの暴挙とは、これに反しそうな事を始めた事。具体的には、本職でないと出来そうに無い完成形の物を、素人が一旦壊したりして造り替える事。これが一般的玄人の本改修工事の見方であり、至極真っ当。

 

 否定的な「拘り」の評を発するのは、後世に残す為の施工という事、残せられる良い物を知らない素人の他人。なので仕方無し、説明しても得られる物無し。よって、お父さんは適当に受け流すようにしている。

 ただ、お母さんにもあまり理解してもらえていない事が残念。以前の施主施工具合も知っているはずだし、それなりに不動産を横で見てきたはずのお母さんなのにだ。お父さんが先に逝った場合、お母さんは継承者に足らず。この事が、お父さんから直接子孫に伝える為としたこの手記を書く大きな動機。

 

 ところで、中塗上付施工期間中に探検さんご夫婦がご再来。今回は、瓦屋根メンテナンス作業をお願いしようと思っていたのに、またもや雑談ばかりで作業依頼は不発、お父さんの作業も停止。しかし、ただのおしゃべりばかりではない。お父さんが悪戦苦闘している左官工程について、左官教室生の探検さんは何かとメールでご助言して下さっていた。それを踏まえてのご来訪であり、作業よりもこちらが主。

 その際、素人同士なのに左官について語り合う。その中身の濃度は、お父さんの施主施工経験上で稀有なもの。目線が違う玄人とはこういう話にはなり難い。ただの素人は、前述通りで会話自体がそもそも成立しない。施主施工者であり、尚且つ仕上がりや精度やらについて考える者同士、いや、同志だから成り立つ事があり、また生まれる事がある。

 

 探検さんの左官に対する熱源は、恐らくお父さんとは違う角度から生まれたと思う。しかし、共に「拘る」事で高まったものだと思う。施主施工を勧める理由の一つが、無知な素人がもがきながらも「拘る」事で、施工費が浮く以外の利が得られる物事があるからだ。

 なので、きょうこやりょうすけ、そしてその子供達に告ぐ。壁の仕上がりを考えるお父さんの姿勢を、「性格でしょ」と短絡的に切り捨ててはいけない。ついでに言うと、目で見える物しか見ようとしない視野狭窄な人間にはならんように意識して欲しい。