家屋伝承

我が子たちに伝えておきたい、伝統構法の我が家のこと。

法令遵守の世の中で

 詰まらない話を一席。

 平成になって早二十数年。いつ頃からか、「法令遵守」「コンプライアンス」という言葉が席巻し定着するようになった。マスメディアで働いておられる、高学歴だけどその職責に反した視野狭窄さと馬鹿という、一部か大多数かの方々のお仕業の面が大きいんじゃないか、と勘繰っている。

 

 徳川家康の後継者の秀忠は、その偉大な父の後を立派に継いで優れた統治者になるべく奮迅されたそうだ。その一つの行動が、父と共に闘ったり仕えていた戦国時代の歴戦の猛者等に指導を仰いだ事らしい。

 その教えに、統治者は桶に四角い板で蓋をするぐらいが良い、という主旨のものがあったとの事。天下という丸い桶に、丸い板で完全に蓋をすると息苦しくなってしまう。四角い板で程々に統治する方が程よく天下は治まる。統治者はそれぐらいの度量が必要だ。そういう意図らしい。

 

 その後の徳川統治がこれを実践したかはさて置き、少なくとも官僚主導の社会主義的国家の現代日本の中枢にはこの思想は無さそうだ。

 官僚の皆さんにとってみれば、法を作ってそれを運用する事自体が仕事なんだから当然だ。ましてや学校の勉強に優れて真面目な人なら、与えられた仕事だけに実直だとしてもそれは真っ当だ。例えばだけど、財務省は国を豊かにする事が仕事ではない。税金を集めて分配をする事が仕事。なので、国の経済が悪くなろうがお構い無し。真っすぐに増税と節約をしようとする。その真っすぐさをコントロールする大事な仕事が政治家。官僚や財務省が悪いだとかの類の話じゃないとお父さんは考える。

 

 一部か大多数のマスコミに携わる方々も同じ、仕事。どこかの誰かが法令違反すれば、その相手が言い易そうであれば特に力を込めてやいのやいの言う。中には揚げ足取りの体たらく。その本質等は二の次、三の次。何なら歪な思想を土台に、国や国民に不利益を与える事になろうが構わない。組織で働いているんだから、万が一、良心の呵責に耐えている方がおられればお察しする。一番腹が立つのは、この風潮に頭を使わず同調を悦とする一個人達だな。

 そうは言っても、大多数の声無き国民の皆さんは、良くも悪くも真面な感覚を持っているはず。江戸時代だろうが平成時代だろうが、法令遵守吹き荒れる桶の中だろうが統治者が誰であろうが、日常を過ごすのが歴史の教科書に載らない庶民。

 

 ここまで書くともう分かっているだろうが、庶民の一人のお父さんは、行き過ぎた法令遵守はクソ喰らえと思っている。法令は平気で個人の領域にもズカズカ入って来る。その度合いは増していくばかり。

 運転する際に義務化されているシートベルトやヘルメット。あれは余計なお世話の代表格と思っている。飲酒運転や速度超過は、その基準設定は別としてその意義は分かる。道路と言う公共の場で、他人様の生命財産を奪う恐れがあるからと解釈している。しかし、シートベルト等は誰に迷惑を掛けるのだ。衝突事故で車外に放り出された人間の脳や内臓が曝け出され、それが公然わいせつ罪に抵触するから、とかなのか。あんなのは、想像力と自分が助かりたい考えがあれば法律等関係なく装着する。

 交通事故死亡者数が多い時代に、交通当局担当官に迫られた数値目標達成の為の法律じゃないの、と勘繰っている。本来やるべき事は、事故自体を減らす政策じゃないのかい。

 

 知らない間に日本国民の法令上の義務は増え続けている。日本の立法思想はその意図は色々あるとは思うが、お節介な物が多いように思えて仕方が無くなって来ている。自己責任の米国や、日本のような歪さが無い個人主義の西欧とは全く違うっぽい。

 数百年前の一庶民はどう感じていたのか知るのは面白いかな、数百年後の日本で住んでいるかもしれない子供達はどうなっているのかちょっと心配、と思っていつか書いてやろうと考えていた。結果、お父さんは今の風潮に鬱憤が結構溜まっている、と書いてみて分かった。