家屋伝承

我が子たちに伝えておきたい、伝統構法の我が家のこと。

お父さん施工の品質と精度目標

 この話の流れでまたまた延長戦。施主施工精度を何故「大工さん(の手元ぐらい)」を目標に置くのか。

趣味でも好きでもない施工仕事なのに、高めの道具を買ったり、施工に時間をかけたりする事に疑問を抱くかもしれない。一番身近なお母さんが、いくら事前事後に説明していても「形から入っているんじゃ?」「神経質で細かい事が好き?」などのような受け取り方をしていたりと、悲しくなってしまう事がある。せめて二人にはお父さんの真意を伝えておきたい。

 それと、実はこれを書いている現時点の作業で「ここまでやるか!?」と我ながら悩んでしまった。そんな自分自身にも、初心へ還るように、奮起せよ、と言いたかったのでこれを書かせてもらう。


 精度目標を高く置いているのには、某建築士達に施主施工を否定的・懐疑的に取られてカチンと来た為という事がある。以前にも書いた通り。ただ、これだけではない。というか、むしろこっちは一時の感情的な理由。

 お父さんのような者だけでなく、業界のお歴々や職人方でさえも憂う施工者の劣化具合。これは、仕方がない流れだとお父さんは考えている。というのは、腕を磨く現場も無くなっていれば、腕を評価してくれる現場も無くなっているようだからだ。
 職方がとても丁寧で良い仕事をしたとしても、発注者のハウスメーカーや工務店はそれを評価し、見合った人工代を支払うか。それはあまり無いと思われる。それでもし工期が延びてしまったのであれば、褒めるどころかその分の人工代を常庸でも払わないかもしれない。次からは呼ばないかもしれない。

また、施主は引渡し時にビニールクロスが汚れていないか、設備にキズが入っていないか、などは気にしても大工仕事の評価はしない。そもそも、評価する能力をほとんどの人は有していないと思う。さらには、大工仕事が現れない仕様の家がほとんどだったりもする。

 こんな現状で、職方の仕事精度を維持向上させる原動力は何か。仕事への誇りや自負、満足感など職方個人の意識の高さ以外にあるのだろうか。これに施主や発注者がただただ依存する事などは、虫が良くて到底無理な話だと思う。
 顔が見えない施主よりも、仕事を直接くれる工務店等が望む品質と工期、これを実現さえさせていれば良い。こう考えて誰が文句を言えよう。以前に書いた繰り返しになるが、施工者の劣化現象をつくっているのは、施工者本人と工務店等と施主の全員だ。

 さて、このように考えるお父さん。本職が人工代と工期の範囲だけの仕事をする、というのは理解が出来る。ところで、「施主施工だからある程度で構わない」と謳う施主施工者の方はチラホラ見受けられる。ご本人がそれで良ければ全く構わない。批判するのは全くのお門違いであり、そもそもそうしたい想いは微塵もない。ただ、お父さん自身はそう思える理由が見つからないのだ。

 施主自身が施工者の場合、人工代は関係なく工期は自分次第。「ある程度で」という方は、工期を比較的優先させているのかもしれない。或いは、うまく行かなかった事への自己奮起、慰めかとも想像する。何にせよ表面的な謙遜であって、実際の所は真摯に取り組んでいる方がほとんどだと思う。

お父さんは敢えて言う。「口ばかりで実際は大した事がないじゃないか」と思われる事を恐れず言う。頑張るのは当たり前なので、過程は評価してもらわなくても良い。本職を意識した精度を目指すのだ。
 ここで工期を優先させるぐらいであれば、あれほどの時間と労力を費やして家さがしをした事、この家を選択して購入した事、そしてこの家を次世代に継がせていきたいという事、それらと矛盾しているようにしか思えない。ようやく形にする段階に来たのに、妥協するのでは辻褄が合わないのだ。施主施工をするという事を妥協だと思っているが、その中身自体にさらなる妥協をしていてはキリがない、とも思っている。

道具や設備の不足等、腕や知識の未熟さで「結果的にある程度」になる事はあるかもしれない。しかしこれは、あくまで「結果的に致し方がなく」だ。