家屋伝承

我が子たちに伝えておきたい、伝統構法の我が家のこと。

現代の恩恵

 結果的に自然素材っぽい建材を使う事になったお父さんは、それら建材について顕微鏡レベルの内容から勉強する事が度々ある。そこでよく思うのは、先人の知恵とはよくもまぁこれほどの物なのか、というような事。ただ、そういう想いが強すぎると、自然素材原理主義者や懐古主義者に陥る危険性があると思う。少なくともお父さんの性格からして、十分にその素質がある。

 

 ま、ちょっとその気があったような気もする、以前は。しかし、今はそうでもないと思っていて、故に「自然素材に拘った」と本職や施主がそう言えばそれでいいんじゃないか、と我ながら寛容な具合。

  それは、自然素材と対峙する事で真逆のようだが、大量生産の新建材の意義や有難さを初めて感じるようになったからだと思う。温故知新だな。

 

 先人が自然素材を活用していたのは、何も高尚な心意気での事では決してなく、単に当時はそれしかなかったからだと確信する。現代人が新建材を活用するのは、突き詰めると工期や費用を節約したいからだ。現代人は先人と違って選択が出来る立場なのに、敢えて新建材を使う。同じく、先人が新建材を選択出来る立場だとしたら。同じだ、ほとんどの方が確実に新建材を使うはずだ。

 

 お父さんは常々胡散臭く思う事は、昔の人の事を良くも悪くも特別視する論だ。何故か、現代人が最も洗練かつ進歩的だと思っている人と、昔の方が人間らしくて良いと思う人が結構な割合でおられそうに思う。

 いやいや、昔の人も今の人も根本的には同じで変わらんよ。その時の社会や技術や制度や情勢や文化の下に応じて生きているに過ぎない。そこに過去人も現在人も、そして未来人もないよ。「今時の若いもんは」は三千年か四千年前から言われているお決まり文句だ。

 もう何なら、人間とその他生物や細胞でさえも、己の利益の為に環境破壊や宿主殺しをするような営みや、理性ある慎みをしたりと変わらん所があるぞ。生きとし生けるもの、皆根本は同じじゃないかえ。ミミズだって、アメンボだって、人間だって。

 

 んでだ。

 自然素材や建材を扱おうとすると、お父さんレベルだと驚くぐらい骨が折れる事がままある。技術や知識面は勿論、現代機械や化学を用いても困難、お金があっても解決できなかったり、出来そうでも多額の費用が要る、という物もある。

 一方で、百年後の人からすると「先人の知恵」である新建材。大量生産を可能にした事で費用が抑えられ、加工や施工がしやすい事で工期が抑えられ、現代商業社会においては素人でさえ建材を買える流通形態が現れた。結果、一億人をも超える多くの人が屋根のある家に住める事を日本社会は実現させたし、以前よりも施主施工がかなりしやすくなった。これは誰が何と言おうと間違いなく「知恵」の恩恵だ。

 

 その中で廃れる物がある。それは当然な事。それが新陳代謝とも言うし自然の摂理とも言う。そのような淘汰自体が自然の営みであり、お陰で全体が恩恵を受けている。何かを強制的に維持しようとするとそれはもう自然な事ではなくなり、下手すると歪な世の中になりかねない。人間界でも自然界でもそれは同様。

 里山保全活動を通してそれを強く思ったわ。里山は先人による経済活動の産物でありそこに経済性が無くなれば、元の状態に還るのが自然の営みだ。経済とは人間の営みそのもの名称の一つに過ぎず、ビーバーで言うならダムを造る事もそうだし、愛玩犬で言うなら飼い主に従う事も経済活動だ。

 

 これらを否定する事は、極端に突き詰めたらだけども、過去も含めた人間だけでなく生物の進歩や存在までをも否定する事になるじゃないか。そして否定出来るのは、一切の現代の恩恵を受けずに生活出来ている人のみではないか、と思ったりするんだな。

 そうなるともう縄文人じゃないか。いや、縄文人だって貿易をしたりと商業活動を行っていたんだ、一体どこまで遡るんだろう。そして、そういう生活者はおられるのだろうか。そういう方がおられても、インターネットも電話も車も無くて郵便局員さんも来ない山奥にしかおられなさそうなので、一生分から無さそうだけど。

 

 ま、結局の所、自然素材だとか高尚っぽく云々言えるのは、選択が出来る現代日本人の贅沢さに過ぎない。結構じゃない、それも過去からの蓄積による恩恵だ。有難や、有難や。

 新建材とかを目の敵にするような論調を見ると、戦国時代や日清戦争辺りまでは冷静であっても、大東亜戦争頃の事になると現代感覚に基づいての感情的批判等を繰り広げる人間と同じにしか見えない。サヨク同様の矛盾さを感じるのだな。今の日本があるのは膨大な先人の犠牲があってのもんだ。時代背景を考えろってんだ、馬鹿野郎が。

 何故そうなるかは分からないかもしれないが、お父さんの場合はこう思い始めると、新建材と自然素材等の選択に悩む人には親近感を覚えるようにもなった。

 

 二人には異論反論があるだろうか。お父さんが思うに、それさえも無いのではないか。現代社会で普通に生活していると、その恩恵さは感じにくいかと思うからだ。何なら恩恵さを蔑ろにして、悪い面ばかりに目が行くきらいが人によってはありそうだ。勿論、お父さんも例外ではない面がある。

 

 そして、この施工から外れた一連の内容は、先にも書いた実情やら本音やらを書く事を意識したからこそ、という面もあって二人や孫世代以降に書いてみた次第だ。

 おじいちゃん建築士が、自身がブログを止めたのは格好いい事ばかり書いてしまうから、とおっしゃっていた。ブログと自身との乖離に疑問やら違和感があったのかもしれない。ブログを書く事を避けていた当時はよく分からなかったが、今は分かる気がしている。彼のもそうだったが、その他の方のいくつかのブログを読んでみても、違和感や疑いや矛盾をいくつか感じるようになった事がある。それで気持ち良くなっているかもしれないので、嗜みとしてお行儀よく突っ込まないようにしている。

 しかし、せめて自分はそうならないようにとは思っている。そんなわけで、今後も弱音や愚痴や悩みを吐いたりするだろうな。もしかしたら、夫として、父として、祖父や先祖として格好の良い事を書いた方が良いのかもしれんけど。