家屋伝承

我が子たちに伝えておきたい、伝統構法の我が家のこと。

二世代の向こう

 ところで、この手記での一人称は「お父さん」。家屋を「引き継がせる」初代はお父さんの代だが、「引き継ぐ」初代はきょうこかりょうすけかだ。この家屋と土地が一族の資産となるのか重荷になるのかは、まずはお父さんの代と二人の代に掛かっていると思っている。そういう事もあって、二人称は「きょうことりょうすけ」か「二人」だ。

 

 しかし、この手記が本当に役立つとしたら子の代よりも孫以後の代ではないか、と思いながら書いている。特に設計施工面では。

 引き継いだ子の代では大規模な改修は必要無い様と思われる。仕様やデザインの陳腐化等で改修をするとしても小規模で、それこそ施主施工レベルかと想像している。それなりに手を加える可能性があるのは、孫以後で早くとも子が高齢化した際。高齢化した子が自分で施工や手配をするのが難しい場合はやはり孫頼りだろう。そんなこんなで、元号も貨幣価値も支那大陸覇権主義独裁国家も変わっていそうな孫以降の世代に向けて書いている所が多い。

 

 そういう訳で、今からの話は特に孫以後に向けたものになる。なので、一人称は「おじいちゃん」とさせてもらおう。果たしておじいちゃんは、物心ついた孫に会えているのだろうか。曾孫に至っては会えたとしても、おじいちゃんがボケていて認識出来ないかもしれない。

 おじいちゃんは従弟の中でも歳が下の方。おじいちゃんが物心ついた時には、おじいちゃんの祖父母は既に70代。母方の祖父は若くして亡くなっていたが、祖母は祖母なりにかまってくれた記憶がある。父方の祖父母は思い出らしきものはない。従弟の内、二番目か三番目ぐらいまでの孫はそれなりに可愛がられたらしいが、おじいちゃんぐらいの歳の孫はその他大勢の一人。

 

 いずれにしても、3人の祖父母がどのような人だったかはよく知らない。父方の祖父母は共に厳しい人だったようだ。おじいちゃん自身も怖い感じの印象がある。それ以外の「人となり」というものは、色々話したり教えを受けたり等の機会が無いまま亡くなったので分からない。ただ、少しだけ大東亜戦争敗戦後の話は聞けた事がある。

 父方の祖父は南米へ移民に行き、そこで現地で生まれ育った裕福な家庭の祖母と出会った。その後の対日戦が始まった事で米軍に収容所に入れられて戦後に帰国。その際にか、敵性国民として収容所に入れた事による賠償金の意味合いなんだろう、米国から金塊か金貨かを貰ったらしい。しかし、引き揚げ者としての苦労は変わりなく、特に祖母は日本語の読み書きはおろか話す事も出来なかったようで尚更だったようだ。

 母方の実家は下級武士だったようだが、ただただ庶民。終戦直後の闇市かで、祖母がビニール袋の束を拾ったらしい。当時、ビニール袋は非常に高価だったらしく、家計が助かったような話を聞いた事がある。

 

 父方母方、どちらもお金の話だな… 自分の祖父母でさえもこの程度しか知らないのだ。ただ、この程度であっても、おじいちゃんは自分のご先祖がどういう人となりだったのか興味はある。そういう事から、おじいちゃんは人間臭い所も書くように意識している所がある。

 それは、折角孫達に会えたとしてもその時は、髪も歯も抜けてシワくちゃでベッドに寝たきり、昔の事はほとんど覚えておらず寡黙か怒声か奇声をあげているかもしれないから。そんなおじいちゃんになっていても中年の時には、まだ見ぬ孫達の事をきょうこやりょうすけと同じぐらいに想いながら日々施工をしていたんだよ。