家屋伝承

我が子たちに伝えておきたい、伝統構法の我が家のこと。

お父さんの建築嗜好

 長々と書いたのは、まだ当該箇所の西半分の壁の事だけ。より時間を要して悩んでいたのは東半分の壁。

 

 お父さんは日本建築が特段好きだったとかでは無い。現代日本建築はよいそうでは無い。どちらかと言えば近代西洋建築が好みなんだな。それを自覚する前で単一通貨ユーロがまだ無かった頃、西ヨーロッパを貧乏放浪一周建築旅をした事がある。

 

 その中で、マルクを持って回った西ドイツは詰まらんかった。戦火で丸坊主にされた所為かと思うが、街並みは現代建築が殆ど。同じく焼野原になった日本とは違うには違うが、勉強が足りなかった事も付け加えてなのか、異文化の伝統性を感じるには至らんかった。と言って同じ敗戦国でも早々に降伏した不甲斐ないイタリアは、伝統的建築物が多くあったがローマ文化色が強過ぎ。言うなれば、現代に繋がっていない別世界で観光地って感じ。

 

 近代建築の三大巨匠の一人、ル・コルビュジェの作品にも複数訪れた。

 その一つには電車で上手く行けず、英語が全く通じないフランス人のおっちゃん運転手と何とかコミュニケーションを取りタクシーで向かう。しかし、メーターが予算を上回りそうになり「Stop, please!」と言っても通じず。「Stop」が通じない事に驚愕。もしやわざと通じないフリをする保守的フランス人なのか。ただ、その少し前に「Yes」が通じなかったロシア人青年に出会っていた。マジかもしれない。

 慌てたお父さんは形振り構わず身振り手振りで止めてもらって降車。120フランぐらいだっただろうか、結構な郊外で何も無い殺風景な所。そこから数時間掛けて重たい荷物を背負いながら徒歩で目的地に行き、さらに数時間掛けて最寄りの無人路面電車ような駅に行き、次の目的地のパリには深夜着。安宿を目指した事もあってか人通りが無く恐怖心を感じながら無事到着。しかし、そうまでして見たその作品に全く感動等はせず。

 

 同じく三大巨匠と挙げられる、ミース・ファン・デル・ローエ。この人の作品でも、特段の想いには至らず。その後、建築を離れてから思ったのは、お父さんはもう一人の巨匠、フランク・ロイド・ライトが一番好きだったという事。行くべきはヨーロッパでは無くアメリカだった。こんな体たらくだから建築から離れる事になったのかもしれん。

 終の棲家探しの新築構想期、瓦屋根で真壁で土壁という選択肢は全く出て来ず。地中海沿岸地域にありそうな、石板葺屋根で白亜な家屋を検討していた。二人はどう思うかな。そっちにしてて欲しかった、と言うだろうか。お父さんが生きている間にそういう事は言わないでよ。

 

 さて、そういうお父さんが、東半分壁で真っ先に思い浮かんだ仕様は全面ガラスブロック。東半分はリビングに懸かる事から採光目的もあるのだが、デザイン要素が大きいかな。だが、この純日本家屋に合うのか。合わんよ。どう考えたって合わん。いや、一応、考えてみた。しかし、合わん。ここから悩む日々開始。自分にではなく、この家に合わせる。なんて難しいんだ。

 

 無難なのは、いっその事の全面土壁。採光は別に良いとしよう。どうせすぐ隣には障子がある。漆床にとっても直射日光が入らない事は良いだろう。だが、どうも重ったるい感じがしそう。階段という縦動線と接する壁だけに、無難な土壁は詰まらん感じもある。

 

 ならば格子はどうかいな。日本建築において、いや、建築において光と影は重要素と思う。光だけでもダメで、影だけでもダメ。その調和であったり、対比であったり、変化であったり等々だ。これを操られる人は、所謂凄い建築家と目されると思うんだな。日本の伝統的な立派な家屋には、この要素が意図して多分に盛り込まれたりしている物がある。でも、大袈裟でも華美でもなく。

 お父さんがこれをどうこうするのは、鉋掛け等々以上に無理難題。という事で普通の格子を検討。しかも、壁として強度がある格子壁はどうだ。格子壁は、建基法でも認められた構造壁となるのだ。いいかもしれん。

 

木造軸組工法と木造壁式構造

 ターゲットは書院があった所。ここに壁を新たに設ける。

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 初期からある時期までの設計では、当該場所に何かしらの壁は設けるには違いないが、一部用途が違っていた。書院が無くなる事で、南側縁側の西奥が無為の場所となる。よって、書院西半分側は中庭植栽用具等の物入れにしようと計画してみていた。東半分側は単なる壁か、階段通路かと。

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 ただ、よくよく考えるとどうも腑に落ちない。

 前出の計画で行くと、どうせ使っていない雨戸の戸袋撤去は良いとしても、池っぽい窪地の対処が必要となる。ここに橋を架けて物入れ動線とする。雨がその橋に跳ね返り周囲を濡らしまくる。う~ん、良くない。物を置く場所にも困っていない。お隣さんとの板垣の取り合いも面倒になる。それらの上で、縁側と物入れの仕切り壁を設ける意力はとても湧かない。

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 という事で、階段が矩折階段となった事もあり、書院があった場所は全面壁とする事になる。この次の問題はどのような壁にするかだ。西半分は、床の間があった所に造作収納になる事からもただの壁。これは決定だがどういう構造壁にするか、これに迷い続ける。

 

 結論から言うと土壁だ。理由は、耐震性向上の為。

 従来の日本家屋大体全てにおいてだと思うのだが、南側は開放的になっている。壁が極力設けないのだな。この南側の壁量の少なさは、学者や設計者や業者は危険だと言って問題視する。鉄骨造等は除き、現代の在来工法木造住宅はにおいては一定量の壁が設けられるようになった。それもこれも、地震による倒壊の一因とされてきたようだ。いくら南側以外は壁が多くともバランスによって成り立つ建物において、南側だけ崩れて他は大丈夫とはいかないわな。

 

 さて、この家も南側が危弱な構造だとなるわけだが、お父さんはそうは考えていない。専門家と呼ばれる方が指摘しているのは、特に戦後に建てられた細い柱の家屋である。例えば、この手記が読まれている頃には無くなっている予定の納屋。資材置き場兼土壁材量取り家屋となっているが、現在の状態は安普請な家と同じような状態に近い。これは流石にお父さんも大丈夫だとは思っていない。解体までに大きな地震が来ない様に祈っている。

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 で、伝統構法も在来工法も何かしらの分類だと同じ「木造軸組工法」とされているらしい。それが間違っていないなら、お父さんは在来工法に関しては「木造壁式構造」と称する方が正確じゃないのかと真剣に思っている。一般的な住宅は、不足の戦後の時も豊富かつ安価な現代でも木材が細い。いくら金物で木材同士を緊結させてもこれでは家屋を保たせられない。よって、壁。合板や筋交等を入れてガチガチにする。柱や梁は壁を造る為の枠材か、と思う程に壁はとても重要。

 翻って伝統構法は壁は補助、馬鹿太い木材による軸組によってだけでも建物として成立するような作り方。例えになるか分からんが、ホームセンター等で売っていて自分で組み立てる金物多用な家具と、家具職人が金物を使わずホゾ等で組んだ家具の強さと柔軟さの違い。同じ家具でも物が違うんだよ、物が。在来工法の知識で伝統構法を考えてはいけない。専門家と言われるような人間でも、混同している思考者は結構少なくないと見受けられる、と口を酸っぱくして繰り返し書いておく。

 

 そう偉そうな事を書いている自信たっぷりのお父さんなのだが、当該場所への壁設置欲求はあるのだ、まさに耐震面で。所詮お父さんは、在来工法にたっぷり浸って来た現代人なのだな。

 だからと言って在来工法的壁、構造用合板や筋交入りの壁等は以ての外。家屋の動きを阻害するかもしれんので。耐震面、正しくは吸震性を得る為ならやはり木造軸組の補助的な土壁。この箇所に入れると量相応の効果があると思うんだなぁ。ここに至る事自体は迷わないのだけども、手間と材料面で躊躇い、まだ先かと決断していなかったんだな。このまま未決にするとブラブラする事になるので、王道を貫く事にした次第。

 

なってみないと解らない。

 修繕程度や一年程度の短期ならまだしも、長期の素人施主施工では継続力が課題になる。これはお父さんぐらいなのかもしれないが、予想外だったと思う事度々。まぁ、こんな事を事前に考えておけるぐらいの立派な大人じゃなかったわけで。せいぜい数ヶ月先の施工の為に、荒土を寝かしておく事ぐらいまでしか頭が回らない次第。

 

 これって愚痴っぽく読めてしまっているのだろうか。そんなつもりは無い。想いだけで突っ走る、ましてや自分の先祖がやり遂げた物が眼前にある。お父さんでさえ躊躇した施主施工による大規模改修を、いとも簡単に実行してしまわないかと危惧する子孫への先祖心で書いている。

 度々書いている事だが、頑張ってこうやりましたよ、ってな施工日報的なものを目指さず、人生においての結構な割合の時間を投じる事になった本施工を手掛ける事の生々しさを少しでも伝えたい。現代の他人様の記録を読む限り、不特定多数の読み手にとってはくだらないこういう内容の物は見当たらない。なので、他人様任せは諦めて、羞恥心を捨てて書いている。そこらへん、くれぐれも誤解なく理解して欲しいのだ。

 

 さて、施工の記録に戻ろうか。と言っても、小壁の梁束梁貫板取付後はまたもや停滞。

 仕様の変更は突然という事もあって、寒い時期に亜麻仁油古色を使用。多分だけども、硬化反応は気温も影響するのではなかろうか。と言うのも、煮た亜麻仁油と言えどもなかなか硬化が遅い。暖かい時期の同じ物と比べてだ。前もっての仕様変更に出来ていれば、早くに手を打っていたのに。

 亜麻仁油古色が落ち着いてくれないと困る事。それは、左官が進められない事。水を掛けるわ泥が付くわ、で出来る事なら硬化してから行いたい。だけどそうではない。

 

 ならば、他の施工をすれば良い。だけどそうならないのが、やる気等々が低減中のお父さん。

 そう言えば、上方落語の重鎮の人が言っていた。若い時は、一日の内に複数の用事を全て終わらせようとしていた。だけど、高齢になった今は、まぁまぁええやん、でいっぺんに終わらせようという気が無い。一日に一つの用事を片付けられたら良し、という考えになった。

 こういう歳がいってからの話は、自分が若い時には「へぇ~、そんなもんかいな」程度のもの。中年真っ盛りになったら、こういう類の話が自身と重なったりして身に染みてきたりする。少なくともお父さんはそう。切替スイッチがイマイチ状態という事も重なり今のお父さんはそうだ。ちょこちょこ作業はやっても、他のがっつり施工をする気にならない。大規模施主施工を隠居後に開始されて完遂されるような方を本気で尊敬する。

 

 そういうわけで数日間、現場をブラブラする。油待ちでブラブラ。作業服に着替えてみても作業する気にならず、数時間で部屋着に着替える日もあったり。そんな事をしていても、内心は落ち着かない。施工を進める事への義務感と焦りが高まる。これ待ち。一定以上に達した所で小壁以外の施工をする決心にようやく至る。

 

長期施主施工は勧めない

 とここまで書いてようやく思い出した、もう一つの「き」。それは「動機」だわ。

 ちょっとした修繕から大規模改修、新築工事や再生工事。建築物に手を入れたり新たに設ける事を考えた場合、一般的にはそれらを手掛ける本職に依頼する事を真っ先に思い浮かぶ。それで事が成すのであれば、残り四つの「き」がどうとかこうとかの話は起こらないわな。至極当然な事柄なのに何故か忘れてたわ。

 

 施主施工に至る動機はお父さんが思うに、殆ど多くの人がまずは金銭じゃなかろうか。度々触れてきたが、まだ途中であり最終確定はまだ先ながら、本職請負工事としたらば本施主施工予算の三倍を要する見立て。瓦屋根の全面的葺き替えを加えていたら四倍。

 

 この数字は奇しくも、本施工より大規模かつ高難易度な古民家先輩の再生工事も同様じゃないかと見ている。彼は本職にも相当額の発注をしている。素人施主施工で完全に収める事が不可能な工種が複数ある。なので、単純比較は困難だが、完全請負工事で完璧を目指すならやはり彼の予算の四倍に到達するのではないか。請負をある程度に収めたとしても三倍か。ちなみに、元々の予算が我が家の倍の上での四倍や三倍である。これを銀行から借り入れられるのは年収二千万円級の人じゃなかろうか。

 在来工法の場合、この倍数は変わるのではなかろうか。本職工事においての人工代と建材等の割合が違ってくるからだ。しかも、一見の素人が調達する建材等は割高になるはず。それでも三倍程度の開きはあるかも。

 

 この一連の話を書いている事自体の動機は、素人が年単位の長期に渡る施主施工を行うという事が、お父さん含めて初めての経験だろうからだ。

 二人共がこの家のような伝統構法家屋を気に入ったとしても、引き継げるのは一人だけ。引き継げなかった一人が、新築出来る様な財力があったり、この家のような比較的良い状態で売られていてそのまま住むなら無用な話。但し、そうでない場合は全部、又は大部分を施主施工するしか選択肢が無いはず。それは、やってみないと分からない個人レベルでは大きな事である。

 

 お父さん自身がそうであり、数年経った途中段階だから思う事がある。今の所後悔自体はしていないが、諸々悩み等々がある。しかし、完成してからだとそれらを忘失して良い事しか書かないかもしれないので、敢えて途中の段階で言っておく。伝統構法家屋は勧める。それとセットになるかもしれない長期施主施工については特段勧めない。

 

 このままだと矛盾話なので補足する。伝統構法家屋を考えている時点で、人生における住居というものに対しての一定の考えは確立していると思う。その前提で述べる。

 お金と時間、それに人生経験がある人であっても断念するような事を、最低でも検討時ぐらいにはやり通す自信があるか。施主施工の金銭的価値がアルバイト代程度である恐れが高い事を承知しているか。しかも、本当のアルバイト代のような目に見える金銭ではなく自己満足感的価値であり、通帳の額面が増えないどころか減っていく事に耐えられるのか。在来工法と違い遅々として進まない現場で結果を逸らず、変化具合の低さや達成感を得るまでの手間暇の多さに萎えない自信があるか。等々を総じたつもりなのが前出の五つの「き」。

 

 消極的な事ばかり書くのも何なので、施主施工の良い所も書いておこう。

 住居に哲学を持っていようが無かろうが、兎にも角にもお金が付き物だ。煩わしさを極力背負い込まない為、一生賃貸という選択肢も有力。それにしても当然ながらお金が要る。住居はどんな形態であろうがそこは変わらん。これをコントロール出来る術が身に付くかもしれない。

 

 賃貸住居に住んでいる新婚時、水道のパッキンを交換したら高齢の大家から感心された。今時の若者はそういう事が出来ないと言い、それに若者だったお父さんは驚いた。今思うに、賃貸だから大家任せで良いと合理的に考えているのか、はたまた容易に交換出来る事を知らない無知かと思う。同作業を数千円からで駆けつけて行うという業者の宣伝がされている世ながら、自分ですれば数百円ぽっち。知らなくとも施主施工をするような人間なら調べて容易に出来る。

 このような事例を挙げるとキリがないが、施工費だけでなくその後の維持費の低減させる能力を嫌でも有するだろう。それだけでなく、それを生業とする人がいるような不具合の早期発見能力もある程度身に付く可能性が高い。早期発見は維持費の低減に直結だ。

 

 他にも、棚や家具が欲しいとか、もっと言うと書斎一室が欲しいとか思っても実現出来るかもしれない。住居本体や維持作業を購入する事しか知らない人なら予算問題で躓く所も、軽々と乗り越える人間になっているかもしれない。かく言うお父さんも、母屋等の生活の基本となる箇所の施工を終え、応用的な事を行いたくて仕方がないのだな。あぁ、後何年掛かるのかなぁ。

 

お金は必須、の思い込み?

 五つの「き」と書きながら四つしかない。一つ忘れたのよねぇ。忘れるぐらいだから大した話じゃないんだろうなぁ。もしかして、その忘れた「き」は「金銭」とか思っただろうか。

 

 これは施主施工に必須かと言われればそりゃそうだ。材料買いにガソリン代はいるわ、電動工具を動かすには電気代がいるわ、左官するのには上水代だけでなく下水代まで取られるわ。何なら、お父さんのエネルギー源の握り飯にもお金がいる。ただ、本職施工の場合は施主支給になる電気や水や、施主施工に関わらず必要なガソリンや米等を一々勘案しても仕方がない。

 そうは言っても、建材や道具を買うために金銭がいるじゃないか、という話になるかもしれない。勿論そうだ。しかし、一概にそうとは言えない感覚がある、この家のような場合だと。

 

 木材や左官材、それに石材。これらは解体材から使い回せる物がそこそこある。ここまでは本施工では普通。ここからさらにやる気があると、他の施工現場や解体現場で建材を貰ってくる事が出来そうに思う。以前にも書いたが、平成の世は伝統構法家屋は解体の一途。それでも保護してきた現所有者があの世に行けば、お父さん世代であろう相続人は売るか壊すか自然倒壊させるか。

 この近辺にもあの街中にも、タダで引き取られる可能性は幸か不幸かある。もし解体業者の下っ端金髪野郎が嫌な顔をしてもそれに耐えれば、例えば古瓦も手に入る。新建材ばかりの在来工法よりは、この家だと貰い物の建材が流用しやすいと思う。

 

 道具にしてもそうだ。しっかりした仕事をしようと思うのなら厳しいが、そうではない場合は金銭に頼らない方法があるのではないか。おやつ代程度の古道具を購入し、後は時間をかけて自分で仕込み直したり修理したり。それが出来れば、その道具を使う腕も向上しやすいのではないか。

 さらに金銭を使わないとなると無償で手にする方法があるかもしれない。施主施工者は、その施工を終えるといくつかの道具は持て余すかもしれない。それを無償で譲っていただく、若しくは借りるのだ。勿論、手弁当で施工の手伝いを大いにするのだ。さすれば勉強にもなるし仲間も出来る。そういう人がいれば、応援の意味でもお父さんは受け入れると思うのだ。

 

 人工提供の逆に、お金をあまり、或いは全く使わず人工を手にする方法もある。施工を体験させてあげる、手伝わせてあげるのだな。これを実行している施主は結構見受けられ、お父さんも何人かから勧められた事がある。

 これを単純には行えない。募集する側である施主の手間暇も要する。しかし、その労力や時間以上の金銭の節約が出来るかもしれない。考えてもみなさい、お父さんは会った事が無い人の現場へ1人工分程の手伝いをしに、本職の1人工代以上の費用を自腹で負担して赴いたのだ。それだけの価値を感じたからであり、飲食をご馳走になったのは却って恐縮したぐらいだ。お金の価値と言うのは、その人その人それぞれのもので絶対的ではないのだ。

 

 それらをするのは大変だ、となれば金で解決。どちらを取るか、どこまでするかの選択。寧ろ、お金で解決出来ない事が一番大変だったりもする。月並みながら要は、金銭は便利さや時間を得る為の道具であると。施主施工に必須かと問われると、お父さんは躊躇ってしまうんだなぁ。電気カンナは便利で早だろうがどうしても必須とは言えない道具、と同義、若しくは近似かなと。